端島炭鉱の思い出

           平成28年12月30日

八木 眞之助

   
 昨年世界遺産となった端島上空よりの写真(2014年3月撮影)
  島の中央には水深600mの2本の竪坑があり空気の流通や 
  石炭の搬送、人の出入り等は全てこの竪坑で行っていた

先日、金田 太様から三菱鉱業時代の高島炭鉱に関する投稿があり、非常に懐かしく拝読させていただきました。私も昔、高島・端島に勤務した経験がありますが、今や皆さん御高齢となり生存している方の数も少なくなっていることでしょう。当時を思い出して、端島炭坑での懐かしい出来事、思い出等を書き残しておきたい。

私は昭和32年に三菱鉱業(株)へ入社して、高島炭鉱で6か月の現場実習を終え、その後筑豊地区の上山田炭坑に配属された。この時期既に炭鉱の合理化が始まっていたのか、暫くして上山田炭坑は閉山リストに上り、2年ほど勤務の後、昭和34年8月に高島炭鉱へ転勤となった。高島炭鉱では初めて採炭現場に配属されて、採炭切羽の係員を務めた。高島炭鉱ではすでに最先端の採炭機械が導入されており、ホーベルやドラムカッターが切羽で稼働していた。高島炭鉱の採炭現場で3年勤務した後、隣の島端島炭坑へ転勤した。

昭和37年8月に端島炭坑へ赴任したが、端島炭坑は横460mx縦160mという小さな人工島で(面積6.3ヘクタール)、たばこ1本吸う間に島を一周出来る程の小さな島であるが、この島に5000名程の人間が住んで石炭を掘って生活していた。島には大正初期に建てられたという、日本で最古となる6階立ての鉄筋コンクリート住宅を始め8階、9階という高層住宅がひしめいていた。

端島炭坑は日本一の高品質の原料炭を生産して、製鉄会社に納めているという、三菱鉱業の稼ぎ頭でもあった。確かに端島炭坑の石炭の品質は日本一であったが、炭層の賦存状況等自然条件は最悪で、生産には非常に厳しい条件であった。炭層傾斜は50〜55度という急傾斜の炭層であり、石炭層は下から5尺層、10尺層、12尺層という3層の石炭層が5〜10mの間隔で賦存しており、それを順次下位から採掘するという条件であり、しかも10尺層、12尺層は2段採掘をしていたため、切羽は5段払いとなっていた。更に石炭の自然発火を防止するため、石炭の採掘跡はボタ(岩石の切りくず)で完全充填をする必要があり、これがまた大変な作業であった。

石炭層にはメタンガスが含まれており、石炭の採掘によってそれがガス化して大気に放出される。空気中のガス混合率が5%を超えると、一寸した火源でもガスに引火してガス爆発が起る可能性が高い。その為切羽内での空気中のメタンガスを常時チェックしておかなければならない。保安要員も兼ねている係員は全員ガス測定器を持参して、常時観測・チェックしていた。

端島炭坑では採炭係員を1年して、その後企画関係の仕事を担当していた。端島の採炭切羽では2人一組でピックと鶴嘴で石炭を手動で掘り出すというもっとも原始的な採掘法を採用していた。炭層傾斜が強いため、採掘した石炭は自然に下に流れて、コンベヤーで集められ炭車に運んでいく。石炭の採掘後、ボタの充填は切羽上部から石炭採掘後の跡地に流し込んで充填する。1番方で採炭すれば2番方で充填という2方操業であった。

端島炭坑ではこの方法で何十年も石炭の採掘をして来た訳であるが、昭和39年の8月深部区域で坑内火災が発生し、消火する事が出来ず深部区域を水没するという大災害が発生した。8月17日、私はお盆休みで実家へ帰省していたが、端島の桟橋に帰り着くなりすぐ呼び出されて坑内火災の発生を知らされて、びっくりしたことを忘れる事は出来ない。良質炭であるがため燃えやすく、坑内火災はつきものであったが、稼働中の全切羽を含めて一括水没するに至ったということは端島炭坑始まって以来の惨事となった。当時の常務取締役が本社から駆けつけて、泊りがけでその後の対策を指示・指導・方針決定をしていたことを思い出す。

端島坑では当時水深350mの浅部地区で新規事業として、約5q南西部の三ツ瀬地区を開発中であったが、その工事を急ぐこと、深部区域(水深600m以下)は水没放棄と決定された。新規開発要員を残して、殆どは隣の高島炭鉱に配置替えとなった。私は企画係をしていたため、端島に残留して新区域の開発に係わることとなった。

海面下350mレベルでは坑底設備の新設や竪坑の改造工事等難しい大工事が山積しており、そういった知識経験はまるでなかった私は驚くほどの勉強をしたことを思い出す。当時新区域までの坑道掘削はほゞ出来上がっていたが、その他付属設備を完成させ出炭開始まで約1年を予定した。関係者一同の最大限の努力により、この開発工事は10か月で完成された。採炭再開後第1回目の石炭を満載した炭車が竪坑より上がって来た時の感激を今でも思い出す。当時の坑務課長であったが、今は亡き神谷課長と感激の握手をした。

三ツ瀬地区での炭層賦存状況は深部区域とは異なり、炭層傾斜は20〜25度程度で、高島炭鉱と同程度の賦存条件であった。従って機械化採掘が可能となり、災害前の端島炭坑とは打って変わって、最新鋭のドラムカッターを備えた機械化炭坑に生まれ変わった。しかし端島炭坑では水深350mレベル以浅を採掘するため、保安上の問題から採掘跡の完全充填が必要となり、新たな問題として浮かび上がった。深部区域の採掘跡充填では上からボタを流し込むのみでよかったが傾斜が緩い条件では、機械を使用して充填材料を持ち込むという厄介な工事が待っていた。

空気充填とは空気を使ってボタを切羽の採掘跡まで輸送する技術であり、当時長崎県の崎戸炭坑の浅部区域で実施されていた。私をはじめ数人で崎戸炭坑を訪れ、現場実習して空気充填技術の習得に努めた。約1か月実習の後,端島へ帰って採炭現場で空気充填を実施するための準備をした。空気充填機を選定して輸入の手配やその他充填開始までの準備は大変であった。坑内では新たに岩石の粉砕設備や搬送設備を作る必要があり、全てが整うまでには1年程度を要した事を思い出す。約1年して完全充填の準備も完了、順次切羽跡地の充填も始まり、立派な完全充填の切羽が誕生した。

全ての石炭を採掘してその採掘跡にボタをきれいに埋めるということは石炭を掘り出す以上の手間暇が掛かるものである。これではどんなに優良な石炭であっても採算を合わせるのは大変であろう。私は昭和42年3月に高島へ、そして43年4月には東京本社転勤となった。

 この時期原油価格の下落で燃料は石炭から石油へと転換され、石炭事情も更に厳しくなり加えてオーストラリヤの露天掘り炭鉱から安い石炭が日本にも大量に輸入されだして、日本の全ての炭鉱は非常に厳しい経済状況へと追い込まれた。昭和44年10月には三菱鉱業も石炭部門を分離し、三菱高島炭鉱(株)、三菱大夕張炭鉱(株)が誕生した。本社にあった生産部は廃部となり石炭関係者は他部門へ配転となった。

昭和48年4月にはセメント事業部門を中心とした三菱鉱業セメント(株)に変身した。
私が入社した当時は筑豊地区5山(飯塚、上山田、新入、方城、鯰田)九州地区5山(高島、端島、崎戸、古賀山、勝田)北海道地区4山(大夕張、芦別、歌志内、美唄)合計14山が稼働していたが、44年10月炭鉱部門を分離した時点では残っていた炭鉱は高島、端島、南大夕張の3山のみとなっていた。

端島炭坑は昭和49年1月(1974年)に閉山されて、島内の全住民は端島を離れることとなった。その後世界遺産の話が持ち上がり、平成27年3月端島は世界産業遺産として登録された。平成27年9月NHKで世界遺産となった端島・軍艦島がテレビで紹介された。約1時間を要する長編記録であるがDVDとして事務局に寄贈してあるので、ご希望の方は菱交会事務局までご連絡ください。内容はかっての手掘り採掘時代の炭坑記録と閉山後の無人島の状況を詳細に記録しております。建物の傷みが激しく、いつまでもつかわかりません。高層ビルは60年〜80年以上を経過しており大変危険な状態となっております。現在端島は長崎市の管理地となっており、長崎より定期的に観光船も出ているようです。機会があれば早めにご見学を!!

―編集後記―

三菱鉱業時代の石炭鉱山の記録を収録したものであり、インターネットからコピーした。
青字部分をクリックすれば非常に詳しい情報が記録されております。ご利用下さい。

三菱鉱業時代の経営した炭鉱リスト&操業年代の記録
 

(長崎県)
崎戸炭鉱(さきと)(18861968 3月閉山)三菱鉱業(株)-西彼杵郡崎戸町

端島炭鉱(はしま)【軍艦島】三菱鉱業(株)(18171974 1月閉山)-西彼杵郡

高島炭鉱(たかしま)【二子炭鉱】(1695198611月閉山)三菱石炭鉱業(株)-西彼杵郡高島町

中ノ島炭鉱18935月閉山)三菱鉱業 -西彼杵郡高島町

横島炭鉱19021月閉山) 三菱鉱業 -西彼杵郡香焼町

(佐賀県)
古賀山炭鉱19681 閉山)三菱鉱業-多久市

(福岡県)
方城炭鉱1962630日閉山)三菱鉱業 -田川郡方城町

三菱鯰田炭鉱(みつびしなまずた)三菱鉱業(株)(18891970619日閉山)-飯塚市

飯塚炭鉱三菱鉱業(19611030日閉山)-飯塚市

鞍手炭鉱19622月閉山)三菱鉱業-鞍手郡鞍手町

碓井炭鉱(閉山)三菱鉱業 - 嘉麻市(旧碓井町)

新入炭鉱1963102日閉山)三菱鉱業(株) -直方市・鞍手郡鞍手町

勝田炭鉱1963626日閉山)三菱鉱業-糟屋郡宇美町

(和歌山県)
音河炭鉱 (明治時代閉山)三菱鉱業-東牟婁郡熊野川町

萬歳炭鉱 (明治時代閉山)三菱鉱業-東牟婁郡熊野川町

(山形県)
油戸炭鉱…(19572月閉山)三菱鉱業(株)-鶴岡市

(北海道)
三菱芦別炭坑 昭和38.6.29閉山

三菱美唄炭鉱 1915に三菱が買収して三菱美唄炭鉱となる。大夕張と並ぶ三菱の
          主力鉱山として名を馳せた。最盛期の
1944には年間180万トンもの生産量を誇った。
          1973
に閉山。常盤台地区は、閉山と共に多くの住民が去った。現在は公園として
          整備されている


三菱大夕張炭鉱(閉山)

三菱南大夕張炭鉱
 1966 南大夕張開発事務所設置。三菱南大夕張新炭鉱開発着手。

1969 石炭鉱業部門を三菱大夕張炭礦()、三菱高島炭礦()に分離。

1970 三菱南大夕張炭鉱営業出炭開始。

1973 三菱大夕張炭礦()、三菱高島炭礦()が合併し三菱石炭鉱業()発足。

1985517 ガス爆発事故、死者62人、重軽傷者24人。

19865 夕張市南部青葉町の炭住街に「三菱南大夕鉱炭鉱殉職者慰霊碑」建立。

1987 三菱南大夕張炭鉱の合理化により三菱石炭鉱業大夕張鉄道線廃止。

1990 三菱南大夕張炭鉱閉山。

1998 夕張シューパロダム建設工事開始により夕張市南部青葉町の旧炭住街が
      すべて撤去されることに伴い、「三菱南大夕鉱炭鉱殉職者慰霊碑」を
       夕張市南部新光町内「わかくさ幼稚園」跡地に移設。
               

(菱交会に投稿)