傘寿に寄せて
平成25年8月10日
八木 真之助
何時の間にかもう80歳、今年は傘寿の年となる。この機会に我が人生80年の主なる出来事を簡単に振り返って見たい。私は昭和9年愛知県の片田舎に生まれ高校卒業までを郷里で過ごし、その後北大に進学したが、これが私の人生の始まりである。大学では恵庭寮という学生寮に仮泊したが、その部屋がたまたまボート部の部屋であり、ボートとは全く無縁であったが、ボート部に入部することとなった。当時北大ボート部の監督は触媒研究所の所長・堀内教授が務めており、この年初めて全日本漕艇大会に出漕したが、北海道の田舎者クルーが強豪にまじって準優勝を果たし、一躍大評判となった。私は翌年より選手の一員に加わり猛練習の毎日であった。昭和29年北大ボート部が全日本選手権で優勝して、日本中を沸かせるという幸運に恵まれたのである。そんな訳で大学時代はボートで始まり、ボートで終わった。堀内監督の紹介で、大学卒業後は三菱鉱業に入社した。以来40数年という長い間、三菱にお世話になることとなった。
三菱鉱業では高島炭鉱で現場実習の後、筑豊地区の上山田炭鉱に配属された。当時すでに始まっていた炭鉱合理化により、上山田炭鉱は閉山リストに入り、職員の合理化が始まった。約2年勤務の後、長崎県の高島炭鉱に配属となり、以来高島炭鉱、端島炭坑合わせて9年、九州での炭鉱勤務となった。昭和34年10月高島町で丹治彩子と結婚して新生活を始める。昭和35年高島町で長男・誠を出産、その後37年8月に端島炭鉱に転勤、特に端島炭坑での勤務5年間は最も印象に残る勤務であった。タバコ1本吸う間に島を一周出来る程の狭い島に8階9階の高層ビルが並び、最盛期には5000人もの人間が生活していたのである。
端島炭坑に転勤命令が出ていた時、家内は臨月近い時期であり着任してすぐお産の準備であった。3日後病院へ行く時間もなく自宅出産となったが、幸いにも元気な長女真理子が誕生した。端島転勤から2年目の8月、忘れることの出来ない出来事に遭遇した。お盆休みで郷里に帰省して、船着き場に帰着したら直ぐ招集が掛り、坑内の深部区域で自然発火が発生中とのこと。その結果深部区域は水没放棄となったのである。その後新区域は約1年後に操業開始となり、近代化された炭鉱として再出発した。端島炭坑は職場環境、生活環境共に劣悪であったが、非常に人情味溢れる処であり、懐かしく楽しかった記憶が残っている。端島炭坑はその後昭和49年廃坑・無人島となっているが、世界遺産として残したいという話が持ち上がって、現在は長崎港から観光船が定期的に運航されていると聞く。
昭和43年3月、本社生産部勤務を命ぜられ、東京勤務となったが、この時期石炭産業は激動期にあり、各所で合理化、廃坑が相次ぎ入社当時13ヶ所あった三菱の炭鉱は高島、端島、南大夕張の3鉱山を残すのみとなっていた。昭和44年4月には当社の炭鉱部門は分離、子会社化されることとなり、私の所属していた生産部は廃部された。以降勤務場所も一年単位で移動することとなり、石炭技術研究所派遣10ヶ月、サンタクララ開発準備室1年、(チリー)アタカマ鉱山1年10ヶ月という目まぐるしい勤務が続いたのである。
昭和46年2月、チリーで鉄鉱石採掘事業をしていたアタカマ鉱山へ派遣となった。チリーではこの時期、軍事政権から国民投票による共産政権が発足した。主だった外国企業の国有化が始まったため、外国企業は軒並みチリーからの引き上げを始め、アタカマ鉱山も翌昭和47年には閉山を決定した。私のアタカマ勤務は1年10ヶ月で終了となり、昭和47年11月に帰国となった。最後のアタカマ鉱山従業員送迎バスを鉱山現場で見送った光景は何時までも忘れることは出来ない。
チリーから帰国後、昭和48年4月には建設省・通産省主導で新たに発足した地域振興整備公団へ派遣されることとなった。炭鉱閉山後の地域振興とその他過疎地域の振興を目的として、この公団が設立されたのであり、役所の職員の他にも石炭産業からも職員が派遣されたのである。過疎地域に新たに工業団地を造成して新規企業を呼び込み、地域の活性化を図ることが主目的であった。私はこの種業務は全くの未経験であり、何をするのか戸惑ったが建設省の出向職員の指導を受けながら何とか職務を全うすることが出来た。
この地域公団に昭和48年4月〜52年4月までの4年間勤務したが、その間佐賀県東部工業団地、岩手県江刺工業団地、福島県いわき工業団地等の基本計画作成を担当した。この事業が成功したかどうかは15年〜20年後の社会が決めることであるが、今話を聞くところによると公団が着手した過疎地域は、沢山の企業が立地して、勤労者不足による若者のUターン現象が起こっており、かっての過疎地域が活況を呈していると聞く。
昭和52年4月公団出向を終えて、千葉県浅間山開発事務所勤務となった。浅間山開発事業は建設会社との共同事業で、千葉県富津市の山砂を採掘して東京湾を埋め立てる事業を行っていたが、昭和46年開始以来既に終焉に近く、第1次事業は昭和56年4月に終了して、その後私は本社施設部に転勤となった。浅間山開発事業は三菱が取り組んだ初めての建設事業であったが、当時石炭産業の相次ぐ閉山、分離により非常に厳しい経済情勢の中、会社再建に大きく貢献したと聞く。
昭和60年4月本社勤務から再度浅間山開発事務所勤務となった。この頃東京湾横断道路の建設や羽田空港拡張計画等が話題に上っており、埋立て用の山砂の需要が見込まれた。既に終掘した地区に隣接する国有林地区を新たに開発しようという計画が持ち上っていた。環境アセスメントも完了して、東京湾横断道路の建設も始まり、中央部の人工島の造成工事に向けて山砂の出荷が始まり、ほぼ順調に浅間山開発事業は再開された。しかし予定した羽田空港の拡張工事は埋立てではなく、デッキ工法に計画変更されて山砂は使用しないということになった。再開に当たって設備の更新や新設などかなりの設備投資をしたが、無駄になってしまったことは誠に残念である平成5年6月三菱を退職した。
その後、八王子市で採石事業を経営していた菱鉱建材社にお世話になり、平成12年6月すべての職を辞した。この時満65歳であった。三菱勤務36年、関係子会社勤務7年合計43年の永きにわたり、お世話になりました皆さんに感謝申し上げたい。退職後は地域ボランティヤ活動として老人会の設立運営などに取り組んできたが、5年前心筋梗塞で倒れ地獄の3丁目を彷徨っていたが、幸運にも生還し、元気な家内と地域の皆さんに助けられて、その後の余生を楽しんでいるところである。
(傘寿に寄せて)
80歳までよく生き続けたものであると感心する。先週の土曜日(平成25年7月20日)子どもたちが集まり私の傘寿のお祝いをしてくれた。長男一家(誠、容子,陽平20歳)、長女一家(長谷川、真理子,香織22歳、千晶17歳)、真之助、彩子の一族郎党9名が参集した。皆大きくなって我が家では入りきれないので、八王子の近くの中華料理店を予約しての集まりであった。
後列左から陽平、容子、誠、香織、千晶,真理子、長谷川匡の皆さん
前列真之助、彩子 (平成25年7月20日、土)
八木の家系は男子短命が多く80歳を迎える私が最長となることであろう。八木の家系は男が短命で女性が支えるということが多かったようである。今の処は特に問題のあるところもなく、老後の生活を楽しく過ごしているが、傘寿後の余命が幾つあるかは知る由もない。適度な運動と頭の体操をしてボケを防止することに努めている。現在は週2回(水、金)の午後、リハビリセンターに通って体調の整理をしながら、老人会の行事に参加して、団地内の高齢者と交流を深めている。どこの団地も同様であるが皆高齢化が進み、高齢者ばかりとなってきた。高齢者対策はこれからの日本の最大の課題であろう。高齢者の生活を支えて、楽しく過ごすことが出来るようにすることが最大の課題である。